西尾市バレーボール協会のあゆみ


歴代会長

犬塚  梅市  1960.4 ~ 1966.4
小田井実郎  1966.4 ~ 1972.4
高橋  英一  1972.4 ~ 1976.4
金山  功   1976.4 ~ 1982.4
味岡  源吾  1982.4 ~ 1991.4
本田  博明  1991.4 ~ 1999.4
杉崎愼一郎  1999.4 ~ 2017.4
服部 憲明  2017.4 ~ 現在

役員一覧



昭和33年4月1日、「西尾市バレーボール連盟」として発足し西尾市体育協会に加盟する。

9人制バレーボールを愛好する仲間が集まり、一般男子の数チームが結成されて、西尾市バレーボール連盟が誕生した。
発足当初時は体育館などなく、企業の空き地を整備して、そこにバレーボールのネットを張って苦労しながら練習をしていた。
その2年後。

昭和35年4月1日、「西尾市バレーボール協会」と改名。

「西尾市バレーボール協会」と名称を変えたが、大会と呼べるようなものはなく、まず道具の確保と練習場所の確保、そして愛好者を募る事からは始まった。その甲斐あって企業単位でバレー部が出来るようになったり、クラブチームなども発足し、協会としての形も出来上がってきた。
バレーボールがメジャーになったのは、1964年の東京オリンピックで大松博文監督率いる全日本女子が金メダルを獲得し、”東洋の魔女”と騒がれたことが大きかった。さらに、8年後のミュンヘンオリンピックでは全日本男子が松平康隆監督の下、金メダルを獲得し、バレー人口が急激に増えた。
当協会も一般男子だけでなく、底辺拡大のために小・中学校でもバレーを広め、さらに一般女子や家庭婦人(平成24年度ママさん改名)のチームまで発足し、現在に至っている。


歴代の活動状況

当協会では市制記念日を祝う時に合わせて、様々なイベントを開催してきた。

■全国青年体育大会へ愛知県代表として出場
昭和42年9月、全国青年体育大会の愛知県大会を勝ち抜き、玉竜クラブが愛知県代表を獲得し、全国大会に出場した。
(主将=杉崎愼一郎、エース=本田博明…共に後の会長)

☆市制20周年(1973年)
記念講演会の開催…
東京五輪金メダル監督の大松博文氏を招き、講演会を行った。その際、大松氏の好きな言葉「成せばなる」の文字を書いていただき、それは錦城体育館(現在、西尾城跡地)のロビーなどに飾られていた。

■全国青年体育大会へ愛知県代表として出場
昭和42年度出場の10年度、再び西尾選抜チーム(平坂クラブと電装西尾チームの合同)が出場した。
(監督=高須金吾…現在の事務局長)
1回戦で北海道代表を[2-0]で破り、2回戦では兵庫県代表に[0-2]で破れたが、大健闘であった。

☆市制30周年(1983年)
国際親善マッチの開催…
西尾に練習の拠点を置くデンソーバレーボールチーム(現在:Vプレミアリーグのデンソーエアリービーズ)とオランダナショナルチームとの西尾市で初めての国際親善マッチを錦城体育館で開催した。

☆市制40周年(1993年)
西尾市総合体育館杮落し事業の開催…
愛知国体の剣道会場として間に合わせるために造られた西尾市総合体育館の杮落し事業として、デンソーチームとバレー界の名門だった日立チームとの親善マッチを開催した。

■ミズノスポーツメントール賞の受賞
平成10年4月、ミズノスポーツ主催の優秀な指導者を対象としたスポーツ功労者表彰で、高須金吾氏が《ミズノスポーツメントール賞》を受賞し、東京で表彰式があった。西尾市で受賞したのは他団体を含めて初めての快挙である。

☆市制50周年(2003年)
姉妹都市とのスポーツ交流…
西尾市の姉妹都市ニュージーランド・ポリルア市へスポーツ交流事業として家庭婦人バレーボール選抜チームを派遣し、スポーツ交流を図ってきた。

■1市3町合併
平成23年4月、西尾市と幡豆郡3町が合併し、新しい西尾市となる。これにともない西尾市幡豆郡旧協会も合併し新体制となり、ソフトバレーも事業対象となる。翌年、合併1年を経過し新市新協会に対応する為、協会再編となり現行の体制となる。